私には卒後4年、7年、10年目に出産した娘が3人います。卒後3年目は京大病院で専攻医として勤務し、その年に第一子を妊娠し、ちょうど卒後4年目になるタイミングで産休に入りました。当時の吉村長久教授に「出産後どれくらいで仕事に戻れるかは体調によってわからないから」といって卒後4年目は籍を大学に置いていただき、卒後5年目に再び大阪赤十字病院に戻りました。今思えば、とても育てやすかった長女でしたが、産休中は慣れない育児と、家事と、他の同期はまだほとんど子供もおらずばりばりと仕事をしている中で、誰も遊んでくれるママ友もおらず孤独な毎日を送り、卒後5年目で仕事に復帰したときは保育園に預けて仕事に行くことがとても嬉しかったのを覚えています。
しかし、いざ仕事を始めてみると、もっと仕事がしたい、経験を積みたいという気持ちは空回りするばかりで、実際には保育園にいっては風邪をもらってくる娘、当時は院内病児保育がなく外の病児保育の確保と送迎に疲弊し、外来診察を時にお休みさせてもらって他の先生にカバーしてもらう有難さと罪悪感、娘が風邪を引く度にうつってしまう私。両親や家族に随分と協力してもらい、ひとりで抱え込まずに他人に頼ること、常に多くの人に支えられていることを学びました。悩みながらの毎日でしたが、そんな私にも外来診察でわからない症例があれば丁寧に教えていただき、多くの手術症例を経験させていただけたことにとても感謝しています。
大阪赤十字病院眼科はスタッフの先生の数が多かったこともあるかもしれませんが、京大医局の先生方は知識も深く、個性に富んだ先生方がたくさんおられると感じます。研修医時代は神経眼科外来でとても楽しそうに教えてくださった柏井聡部長、卒後5年目の復帰時は病棟回診でも丁寧に説明してくださった石郷岡均部長、その後秋元正行部長が来られてからは手術室でのシステムが効率化されて手術件数も急激に増加し、次女出産以降は時短制度で勤務させていただいていた私にも、硝子体手術も含めて多くの症例を担当させてくださいました。
大学院に進学したいという気持ちは比較的早い段階からありましたが、子育ての合間でなかなか仕事に自信が持てなかったため、長く臨床の現場で学びたいという思いもあり、大学院進学の時期については迷いがありました。次女出産後がひとつの区切りかと思っていた卒後8年目に父が急に他界し、気持ちを立て直すのに少し時間がかかりました。ただ、三女出産後に、もし大学院に行くとしたら最後のチャンスかもしれない、と思い、他の人とは少し違ったタイミングとなりましたが、大学院に進学することに決めました。
今、大学院卒業にあたり、思い返してみると、本当に悩みながらの道のりでしたが、不思議と後悔はひとつもなく、大学院にも進学させてもらえてよかったと心より思います。同期入学の先生は、年齢は私より若いですが、とても優秀で良い刺激をもらえましたし、データの収集や解析、論文作成、学会発表では思った以上に知識が深まりました。大学の緑内障グループのカンファレンスでスタッフの先生方のディスカッションはとても勉強になりました。大学には子育てをしながらそれぞれの専門分野で仕事をされている先生もたくさんおられます。何より、この年齢になって数多くの先生と出会えたこと、視野を広げてもらったことにとても感謝しています。
思えば、仕事の経験を積みたかったときも、子育てとの両立に疲れてしまった時も、眼科の知識を深め研究に携わりたかったときも、医局人事の中で、その時々に合った居場所を作っていただいたように思います。大学院入学前に勤務していた頃は幼かった娘たちも、今年からは小学校6年生、3年生、幼稚園年長になり、ときには私の相談相手になり、家事では戦力になりつつあります。大学院4年間の間にも私を取り巻く環境は変化し、再び仕事への意欲も高まりつつあるように感じています。
大学院の卒業を迎えて、今後も細々と研究は続けていきたいですが、やはり私は臨床の現場で仕事がしたいのだという気持ちを再認識しました。様々な縁が重なって、卒後再び大阪赤十字病院で勤務させていただくこととなり、以前ご指導いただいていた先生の下で、働き慣れた環境で、再び臨床を始めさせていただけることに、心強さを感じ、このような配慮をしていただいたことに本当に有難いと感じています。その環境に甘えることなく、今後は外来診察や手術で貢献できる人材になれるように、努力していきたいと思っています。